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  • 2018.10.12 Friday

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    過ぎ去りし夏の

    • 2018.10.12 Friday
    • 02:40

    思い出!

    何かを書くと宣言するととたんに書けなくなってしまう天邪鬼が我が魂には住み着いているようで、

    夏の間のたのしい、ほうっと温かな気持ちになった何度かの朗読について、結局なにも書けないで秋の真ん中まできてしまった。

    とにかく何人かの詩人の朗読をきいて、言葉が理解され心をおののかせ人体を実際に震わせるということを経験したので、

    そういうことを自分が目指すかは別にしても、とてもいい夏だった。

    言葉について小学生や中学生だったころ感じた宗教心みたいなものを感じることができた。

    言葉には深淵な世界があって、それをまっこうから考えるのはいろいろあるこの世の奥地へのつながり方のひとつなんだぞ、というあの気持ち。

    そういうことを言うとすぐさま「それはさみしさが癒えた気がしてそれに酔っぱらってるだけだぞ」と意地悪な声がするけど。

    それでも朗読を聞きながら指が震えたのは事実で、やっぱり楽しかったのも事実です。

    10月9日に書いた詩

    • 2018.10.12 Friday
    • 01:37

    不安は北東のそらにちぢこまってかたまり

    あそこからまだ出てこない

    わたしはいまは和やかな緑の城跡にいて

    もう別の文脈へ移ったようでもあるし

    新鮮な睡眠の養分を吸い

    あたらしい身心をもらったようでもある

    このまま違う方向へ飛んでいくのか

    あるいは幸福のすずしいベランダ そのさなか

    無限に落下を続けて

    まっしろな速度を世界になおし

    光を散らしながら体をばらばらにほどいていって

    とてもさわやかな最先端

    この世界に鼻先まで近づき

    そのままぴったり止まってしまって

    懐かしい街や葉の重層やみんなのいとなみ

    いつまでもたいらにたいらに 明るいままで見ていたい

    7月20日に書いた詩

    • 2018.07.20 Friday
    • 00:41

    鯨の時間と鹿の時間は

    みどりの空で交差ごっこ

    触れてもしらない宇宙のはじっこ

    わたしの闇にとじこめられて

    きらめく神経回路にそびえて見える

    針のない大きな時計塔は

    何かを否定するためのものではなく

    ただわたしの時間だけをはかっている


    7月1日に書いた詩

    • 2018.07.20 Friday
    • 00:13

    わたしのいた場所に

    何十年もあとやってくる人と

    孤独なまま一緒にいられたらいいのに

    今朝のすごい雲は

    天盤に薄く張り当てられて

    強いひかりをとじたのち

    水気をたっぷりふくんだ暗い雲と

    みどりの梢を時空にながしている

    あの太陽の平らな鏡

    古代の鏡だけが

    嘘と本当の間にいる

    ブラックホールと動物園

    • 2018.06.27 Wednesday
    • 00:37

    6月9日に、世田谷の詩とダンスのミュージアムで、拙著にまつわるトークイベントをひらいていただいたのだけど、すてきな場所だったので東京の方はぜひいかれてみてね。

    野村喜和男さんと野村眞理子さんがご自宅を改装してひらかれているミュージアムです。

     

    トークを一緒にしてくれたのは、2009年頃の現代詩手帖の新人投稿欄で一緒だったカニエ・ナハさんと、そのときの選者だった井坂洋子さんで、9年越しのおしゃべりという感じですごく感慨深かったです。

     

    カニエさんは、投稿欄のときもいまも、周りを見渡して「いまされていること以外」をやろうとしていると言っていた。

    わたしはあんまり周りをみないでつい自分の進路ばかりになってしまうから、近くで見ながらいつも、カニエ・ナハの詩って結局どこにあるんだろう、と不思議になったりするんだけど、同時に、かれの詩はとても現代的だ、とも思う。

    カニエさんは、やっぱり自分の詩作のことをいまいち話してくれなかったけど笑、わたしが思うことを好き勝手に書くと、かれの詩は中心がブラックホールみたいだなと思う。

    わたしのような身体感覚云々って言われがちな書き手の詩の中心はきっと進んできた力を跳ね返してしまう限界や行き止まりなんだけど、かれの詩の中心って、吸い込むばかりの穴のよう。

    引用ばかりて構成してるから他者が中心にみえて、そうでもない。

    わたしにはちょっとそれが、インターネットに似てみえることがある。

    能動的に選び取った誰かの言葉を、ひたすらひたらすら吸い続けて、受動的に、うけとめつづけて、黙ってしまう。

    何かを仮に発していたとしても、それは他者の目にとまることは意識しているけど、態度としては自分だけに語り掛けてるみたいで。

    そのふっかい悲しみが、ふかすぎてもはやささやかな慈愛の燈明みたいになりつつある悲しみが、なんか満ち満ちてる。気がする。

    (わたしは現代性とか新しさというものにほとんど関心が持てないのがコンプレックスで、よく「自然に反射する、結局は自我を探求してるわたしの詩って、近代詩なのかも……古くていらないのかも……どうしてもこれがしたいのに……」と思ってるので、たまに、ねたましい。笑)

     

    あと井坂さんに、いまの若手の現代詩ってどんな詩だなって感じますか、とたずねたんだけど、「動物がむやみやたらにでてくる」と答えられてなるほどと思った。

    わたしもむやみやたらにだしてしまうけど、なんでなんだろうね。

    井坂さんは、それらの動物はけしてリアルな野生動物ではなくて、なにか風船でできたおもちゃみたいなものだ、とおっしゃっていて、それも身に覚えがある。

    わたしが詩にかいた何体かの動物も、空気で膨らむ獣や鯨だったかもしれない。

    でも他の何体かは、わたしが食べるために殺した動物や、夢でなにかのかわりにじっと見てきた動物たちで、それは出さざるをえなくて出した動物ではあるんだけど。

    擬人化ってわけでも、みんなないんだと思う。

    自然を取り込み、詩の世界観に幅をもたせるためだけでもないはず。

    わたしはわたしなりによく考えた結果、ひとりの人間といっても自我はばっらばらでくだけ散りまくっていて我ながらよく自分の考えも支離滅裂なので、その破片がいきなりとりあえずは人間以外の存在になって、外側から「ヤア……」とやってくるような、そんな感じに近いかなと思いました。

    でも結論はもうちょっと先延ばしにしたい。

    6月26日に書いた詩

    • 2018.06.26 Tuesday
    • 23:15

    突然なつかしさが湧き出でて消し去られる

    いまこのあたりを漂っていたもの

    感じる感じる

    ささやかな触覚の先のみえない失われた器官で

    雲間からの薄い日光

    吹き上げられた温かな夕ぐれの風と

    影にかわる雲のめかくし

    ここへはたしかに冴えた知恵も落ち注いでいるのに

    わたしの五感は慣れた回路をつなぎ

    過去のなかに引き戻される

    まうえの気象の様相

    鹿の頭をした星が来光を練りながら

    雲を無限に開き続ける

    麦穂の風を手繰り

    • 2018.06.03 Sunday
    • 02:49

    小学生くらいの頃、家にあったたしか大辞林の、巻末付録の歳時記を見るのが好きだった。

    季語はたった数文字でわたしの脳と五感のいくつかを現実から切り離し、

    時空をこえて風や光を体験させるようで、これってやばくない?と思っていた。

    わたしの見たり聞いたりにおいを嗅いだり、そういう機能はけしていま体を置いている環境からだけでできてはいなくて、

    記憶と呼ぶにはもっと遠くからやってくる、不思議でたしかなこの世界のまだ知られていない秘密とぴったりくっついている、

    と思えてしょうがなかった。

    だから物語で出会う人物と学校の友達の存在はわたしにとっては価値は同じだと、飛躍して思ってしまった。

    まるでドイツのむかしのロマン主義みたいな考えを知らないうちにほとんど確信を持って抱いていて、

    まあいまでも多少はそういうところが残っているけど、

    とにかく当時は、現実がつまらなければ言葉で現実を拡大すればいいのさ、くらいに思っていた。

     

    それから中学にあがって、後の十五年はひたすら人間関係のルールを学ぶ(最初は付け焼刃の演技として…)ことに、

    ほとんどの労力を費やしてしまった気がするんだけど、

    しばらくは言葉が魔力を持ち続けていたと思う。

    この数年いろいろあってちょっとおかしくなっていたんだけど、最近また魔法の世界に帰ってきたような気がしてる。

     

    だって、「空梅雨」なんて季語はどう?

    もうカラツユと聞いただけで真っ青なカンカン照りの空がみえて、硬く濃くなった葉っぱがぎらぎら光を返すのを肌に感じるし、

    空梅雨という言葉がなければただの夏だった天気に、

    合わせ鏡の、反対側の青ざめて煙る薄暗い梅雨(青梅雨という季語もあるね)も、同時に見える気がする。

    「青葉闇」も好き。水みたいな葉の下の暗さが一瞬で耳のなかにまで届くし、明るいところからの心理的な遠さもわかる。

    「麦秋」もずるいよ。暑い風にときどきつめたいすずしい風が糸のように絡まって麦の上を流れていくのがわかる。

     

    季語に浸って知ったのは、むしろこういう言葉はあまりに強すぎて、

    もし本当になにかを忠実に伝えたいときは熟語って容易に使えないな、ってことだったけど、

    いまでも季語は胸の浅瀬をつつかれるような感じがする。

    ハッ、という短い呼吸のうちに消えるような、とらえきれない膨大で鮮明で儚い光景と心の一瞬のリンクのあの感覚が、

    そこに保存されているような、そんな感じがする。

    ハイフン( - )について

    • 2018.06.02 Saturday
    • 01:31

    一日遅くなっちゃった。昨日は四角形のなかに詩を書いたりしていた。理由はあとで書いてみるとして……

     

    第三詩集のなかの二つの詩は、「 - 」半角ハイフンが妙な位置に入れこまれているんだけど、

    あれは詩行の風通しをよくするためにやってみたのであった。

    風通しというのは、単に見た目のことでもあるけど、

    書き手が言葉を選ぶときに体験している(と思う)語と語の間にふく風の通りのことです。

    たとえば「点在 - して - は - 雨降る - 日 - ごと」と書いた、

    続けて書き直せば「点在しては雨降る日ごと」という、なんだか脳みそからぬるっとやってきたような一文でも、

    それをとらえて言葉にするときは、

    「点在」という言葉に、まず、

    意味の外で、間隔をあけて並んだ街灯にぽつぽつ明かりがともるイメージを見るような気がする。

    漢字やその言葉をこれまでに見た記憶が、そうやって勝手に視野のそとで像をもやもやつくる。

    続く「して」という、白っぽい字面。「は」をはなすことでよりいっそう白は重なり、乳色の霧のベールを思う。

    「雨降る」は少しだけ日本神話の気配をたたえ、「日」があることで、

    その雨にすでに陽光が差す未来がみえてくる気がする。

    「ごと」は濁音と母音のせいで重たく硬いから、一文を地面にひとまず落とすような感じがする。

    と、そんな風な感覚をもって、書いているから、

    そのいわば演奏みたいな……完成形ではなく再生を見せたい的な……そういう気持ちがある。

    言葉の区切りが意識される箇所は、詩それぞれちがうしそのときどきちがうのだけど、

    それによって詩の気配ができあがる感じがする。

    語のあいだに風がふいていて、その風をもっと届けられたら、最近感じているきまりきった活字と詩の形の窮屈さもやわらぐんじゃないかと思ったの。

    自分ではまあまあいい感じだと思っているだけど、他の人にきいたことがないからわからない。どう思われてるんだろか……

     

     

    昨日やっていたのは、テキストボックスに詩を四行くらい横書きで書いてみるというもので、

    それは、いっそ狭っくるしい空間を用意することで外側の広い、風も吹く空間を感じるんじゃないの?と思ったからだったんだけど、

    実際にやってみると額縁みたいだった。

    でもまあ、難解でわけのわからん現代詩、にはそれなりに有効なのかもしれない。

    絵画はわけがわからなくても芸術だからそんなに悩まないかもしれない。

    詩も絵画のように眺めて自由に感じてもらえたらいいのになあ。

    詩作のなやみ

    • 2018.05.31 Thursday
    • 00:02

    この数年はとにかく「これは詩だ」という意識とのたたかいというか、詩だ、と思う前の詩を書こうとしていて、

    ゆえに歩きながらどんどん言葉を携帯に打ち込んだりノートに走り書きしたりしていたのだけど、

    結局それだって最後は推敲をするんだよね。

    推敲、すくなくとも詩を読み詩を書いてきた経験によって検閲をしないと、それを詩だと宣言してはいけないような、

    そんな気がしていたので書いたまんま「これは詩か?」という問いを通さずに出すようなことはできなかった。

    だから結局、わたしの詩は、「詩的」イメージに追いつかれそうになる。というかよく追いつかれる。

     

    なにをもってして「これは詩か」という問いのもと自分の作品を判定していたかというと、

    たぶん、

    ・たんなる説明や感想文にとどまっていないか

    ・「わたし」の弁明になっていないか(たとえ作中に「わたし」という言葉がなくても)

    ・言葉が慣用的にではなくいまここに絶対必要な使われ方をしているか

    ・ぱっと見た瞬間全体のバランスが美しいか(美しくない詩は不思議と本当につまらないものばかりだから)

    ・自分が書いた感じがあまりしないか

    と、思いつくかぎりではこんな感じだから、基準としてはものすごく主観的だしぼんやりしてる。

    発表するときはだいたい、こんな風なぼんやり基準で主観的に追及したあと(これをすると自分が書いた感じはしちゃうんだけど)、

    最低限客観的に、意図していない部分が不明瞭で相手に伝わらないようなことがないかチェックするかんじ。

    だけど、答えが自分のなかにあるような主観的なこういう項目も、

    結局何人かの好きな詩人、すごいと思う詩人の詩のかたちが念頭にあって判断されるから、

    あたまのなかの形而上のよい詩、つまり過去に存在するよい詩(好きな詩)の光源みたいなものがいつも支配しちゃう。

     

    それはわるいことか?と考えれば、いや、そんなこともないとも、おもうんだけど。

     

    詩はどこがかわってよくて、どこがかわらないまま続いていくものなの、おしえて偉い人……

    いやそれを考えるのがその時々の現代詩人の仕事なんだろうけど。

    でもそううだうだ考えていると思いもよらない方向から、新鮮な感覚はやってきて、

    黒衣の天使(文として書かれる文字のことを超絶はずかしいながらこう呼んでるのね)は、現在をお祝いする。

    何時代に生まれてもどうせこれを書かねばならなかったんだ!という気持ちで、とんでもなく騙されているのかもしれないけど、とりあえず書いているのだ……ウウウウウ

    いつかガばアッと幕がめくれて、全部大笑いもののばかげだ茶番だってわかったらどうしよう。怖すぎ。

     

    いまのなやみは、

    活字の窮屈さです。

    詩をかくとき、縦にしろ横にしろ、上ないし左詰めで、

    何マスかあけたり何行かあけたりするのも含めて行を意識して四角っぽい活字をつめていくのは、

    なんだかたまに息苦しくなる。

    でも活字はみんなに読みやすいものだし、そういうものをそのまま利用して活字を斜めにしたり大きさをかえたり散らばりしたりするのは、なんか違う気がするんだよなあ。

    それにいい加減横書きが主流になってもよさそうだけど、

    横書きは細い旗がみっちり敷き詰められてるみたいでフワフワするのになんか息苦しく、

    じゃあ縦書きはというと、天と地と重力を感じるから空気が通るのは感じる、でも首つってるみたいでなんか重い。

    かと言って手書きは揺れがあるのはいいけど読みにくいし意図しない情報量多すぎて面倒くさいし。

    第三詩集に、「 - 」を行にいくつも挟み込んでいる詩があるのだけど、あれはこのへんの窮屈さをどうにかしたくて試しにやってみたものでした。成功してるかはわからないけど……。

    長くなったので、明日また書こうっと。

    こたに わりやの ごとばかりで

    • 2018.05.04 Friday
    • 00:35

    長らく悩んでいることの一つに、誰かと長く関係を続けられないことがある。

    喧嘩別れするとかじゃもちろんなくて、たぶんわたしが連絡不精なのが原因で、仲良くしたいな、尊敬できるな、と思っていた人ともすぐに関係が切れてしまうのが我ながら本当に残念。

    しかもあちらからお手紙やメールを頂いてるのにね。本当に本当に、なんでちゃんと続くようにはたらけないのだろ。

     

    で、よく自分で考えてみたんだけど、一つには自分がなにかアクションを起こすことで関係がたえず少しずつ移ろうのが怖いからかなと、まずは思い浮かんだ。

    うまくやればいいんだけど、自分の取り繕うにも限界がある人間に対する雑さや気の利かなさにうんざりしてるし、想像しただけで疲れてしまう。

    まあもっと、言い訳がましいのをやめて端的に言うと、嫌われたくない。

    なんで嫌われたくないのかね。と考えて、

    頭に癖のように浮かぶのは「好きなひとに嫌な思いをさせたくないから」とかその類のことだけど、

    これはきっと自分を騙してて、たぶん本音は「知識や読書歴なんかも含めて思ったような人間じゃなくてがっかりされたり納得しかねる意見を言っちゃって失望されたりして傷つきたくないから」が理由だと思う。

    つまり、わたしは自分のことにしか興味がないのかもしれない。

    それは本当に、大変、嫌気がさすけど、まあそうなんだろうなあ…。

     

    でもだからって自分のことばかりを考えるのは少しも気分がよくないんだよなあ。

    この与えられた五感を取り巻く季節や風や光や霧のこと、空の雲のことを考え、自分は目や耳や鼻だけになってしまって、浸るのがたぶん小さい頃から一番好きなことだったんだけど、

    それはなんで好きだったんだろう。

    たぶんそれもなにか保身に繋がる作用を求めてたんだろうな…。

     

    でもま、少し、これからは素直に、例えばイベントに誘われたときなんかに、適当な理由で断らず、「詩についてはたぶんいま吸収期でことに詩作については人と話したくないからすみません」とかそんな風に言おうと思いました。

    そう思ったのは素直な詩人たちに会ったからだ。ありがとう。